禎心会病院脳神経外科での手術訓練

前回のブログにも書いたように,私のところでは,主に脳血管障害に対するmicrosurgeryとして,脳動脈瘤クリッピング術と脳血行再建術,そして頭蓋底手術の教育をしています.

すべての脳手術の基本とも言うべき,大脳の大きな溝(前頭葉と側頭葉の間にあるシルビウス裂,左右大脳半球間裂)を無血・無傷で剥離・分離することが最初の大きなハードルになります.それ以前に皮切から始まる止血をいかに完全な状態にするか,術野の中に出血のない,無血状態をいかに確立するかが,実は一番重要で,多くの外科医にとって難しい問題のようです.世界中で多くの脳外科医の手術を見る機会がありますが,私の基準を満たす手術はさほど多くはありません.

脳動脈瘤をクリップするにしても,脳血管を塗って新たなバイパス路を作り出す血行再建術にしても,またより効果的な術野を獲得するための頭蓋底手術を行うにしても,病変に到達するまでに無血で術野を「制御」することが出来るかどうかによって,治療成績が変わってまいります.例えば,脳血管吻合術は普段から人工血管を用いた微細血管吻合の練習を積んでおけば,血管縫合の技術はさほど難しい技術ではなく,むしろ,以下に練習を積んで縫合が上手になっても,実際の術野で止血が不十分な状態での血管縫合は,血液が邪魔をして操作すべき血管が見えない状況になるので,これは血管縫合が出来ないことと同じになってしまいます.日本国内,世界中から谷川のもとに集まってくる若い先生方は谷川が学会でデモンストレーションするような手術を出来るようになりたいというモチベーションをもっていますが,その本とんど先生方は(かつて私もそうでしたが)手術テクニックを学べば出来るようになるだろうと思っているようです.これは半分正解とも言えますが半分は間違いです.手術の技術を発揮するのは私達生身の人間ですから,その技術を正確に毎度同じように執り行うためには,私達外科医の心の「制御」が重要になるからです.と言われても,多くの人々はあまりピンと来ないかもしれません.脳神経外科手術に限りませんが,自分が計画したとおりのことが思った通り順調に進行している状況は,それを行っている術者にとってはある種の心地よさを感じることが出来ます.しかし,何か予想外の問題が起きたりして一転厳しい状況が起きると,手術の場合には患者の生命に関わる事態につながりますから,術者を襲うストレスは相当なものになります.最悪の状況が術者の頭をよぎると,術者によってはパニックに陥り冷静な判断や操作が出来なくなります.つまり,自分が意図しない不利な状況下でも平常心でいられるかどうか,自分の精神を「制御」できるかどうか,特に私達が毎日接している脳をどれだけ大事にできるかどうかが術後の成績に影響することになります.

 

手術中の予期せぬ問題は往々にして手術の後半,術者が疲れてきた頃に起きる傾向があります.朝から手術を開始して,夕方に近づきこのまま順調に行けば無事終了と思った頃に起きることが多いのです.場合によってはそれが夜中12時を回った頃に起きることもあります.実際に私が経験したトラブルは,順調にバイパスが完成したにも関わらず,夜中1時ころ閉頭中にバイパスの流れが悪いことに気がついて,それから再度開けなおして,朝方まで3度バイパスを作り直さなければならなかったことがあります.ここで考えるべきは,問題が起きたところに戻って問題の解決をすることが出来るかどうかということです.私達人間の行うことには体力の限界,精神力の限界があります.このような朝からずっと行ってきた手術の後半で,しかも夜中1時過ぎに重大な問題が発覚した時には,体力的にも限界に近づいていますし,精神的にも辛くなるものです.そのような状況下でも自分が計画したとおりの手術術式を完遂するために,じっくりと粘ることが出来るかどうか,これは私達の心の「制御」によってのみ可能なことなのです.

 

谷川のもとに集まってくる若い先生方は,日本人であるかどうかは関係なく,私と一緒に手術に入り私の術中の立ち居振る舞い,毎日のモーニングカンファレンスでの心の「制御」を見聞きするうちに,少しずつ手術は単なる小手先で出来るものではないということを学んでいきます.

 

この問題は手術に限った話ではないと思います.自分が好きで始めた趣味でも,遊びでも,あるいは仕事でも,朝から晩まで集中してやっていると,疲れてきて嫌気が差してきたり,休憩をとりたくなったり,あるいは,今日はやめにして明日に,などというふうに途中で辞めることが出来ますが,脳血管を相手にした手術ではそれが不可能なのです.このような状況は手術であっても年に1度あるかないかの稀なものではありますが,難易度の高い病変を手術で治療しようとした場合に起こりうる状況です.そして,外科医が成熟するためにはこのような状況に対処する先輩外科医の背中を見るという経験が必要となります.だからこそ,「一流外科医」になるためには年月が必要で,とても2−3年の訓練で到達できるものではないのです.もしかすると一生かかってもなれないかもしれない,と最近は感じています.